補瀉
サブタイトルを変更しました。
「オステオパシーと鍼、その他もろもろ」。
その他もろもろというのがミソね。何でも書けるから。
……。
で、今日のテーマの補瀉ですが、実は長いこと悩んでいます。で、実ははそのことを、長いこと「なかったこと」にしていたのですが、最近になって、本格的に悩んでいます。
補瀉というのは東洋医学(この東洋医学という用語にも異論があるんですけど、それはまた別の機会に)の基本概念のひとつで、補とは補うこと。瀉とは取り去ること。
では何を補い取り去るのかというと、これまた東洋医学の基本概念である「気(あるいは血)」です。
気は確かに実感できるし、中には「私は気が見えます!」という器用な人もいますけど(たいていはウソか、そう思い込んでるだけでしょう)、ではその気とは何?、と問われると、あまり上手に返事が出来ない。
物理学的に、気とは何でしょう。東洋医学を論じるんだから物理はナシね、という逃げはナシにして、一体、気の本態とは何でしょう。
東洋医学はその実態がわからない気を相手にして、補瀉を論じているのが実情なんですね。
物理でも、エネルギーの実態があることにして、エネルギーを論じているんだから、気=エネルギーとしてもいいんですけど、では、人体におけるエネルギーである気とは、一体どのような実態のものなんでしょう。
それより以前に、実感できる気は、本当に実感しているのか否か、あるいは、実感しているとしても、その実感の本態は何なのか、あるいは、本当に気を実感しているのかどうか…。
そんなこんなをひっくるめて、理論に押し込めて、「あることにして」構築しているのが、東洋医学なんです。
すると、その本来は理解できていない気を補瀉するとは一体どのようなことなんでしょうか。
先にいったように、気が出たり入ったりするのが見えるという人もいますが、そんな特殊技能をお持ちの方はごく少数ですし、特殊技能をまじめに話されると、かえって東洋医学が怪しげなものに見えますので、横に置いといて。
補とは、機能を亢進させること、瀉とは、機能を鎮静させることということも出来ます。つまり、働きが悪くなったのをがんばらせるように気を送り込むのが補で、働きすぎてかえって不具合が出ているところから気を追いだして落ち着かせるのが瀉ですね。
では、その機能という働きを、現代医学的に、生理学的に考えるとどのようなことになるんでしょう。
実はここで気を持ち出すと、また実在不明のものを現代的に考えなければならないから、思考不能に陥ってしまいます。
ですから、ここでは気に、ちょっとどこかに行ってもらって、身体機能の状態として考えると、自律神経の作用を考慮しなければならなくなります。
自律神経のうち、交感神経は、脊柱の中の脊髄から出て、椎傍交感神経幹を形成します。あるいはその枝枝が腹腔内で腹大動脈にくっついて神経叢を形成します。
副交感神経は、脊髄の中でも仙髄に関係し、あるいは脳神経系に関係します。脳神経の中の副交感神経では迷走神経が最も長く体に伸びていて、腹部の神経叢とは交雑します。
というように考えると、補瀉は、肘から先の手(前腕)か膝から先の足(下腿)と体幹を対象にしますので、自律神経レベルで補瀉、つまり、機能の亢進か鎮静を考えると、背部では交感神経に対して、腹部では、両者に対して、前腕は交感神経、下腿は副交感神経に関係することになります。背部の皮膚や筋は、明らかに交感神経の投影を受けているからであり、腹部の皮膚も投影を受けているんだけれど(たぶん筋は交感神経と思う)、腹部の神経叢は交感神経と副交感神経が交雑しているので、両者に働くんではないかと…。
前腕は、頸部の神経で動いているので交感神経でいいとして(すごくおおざっぱですが)、足の方は、腰部が少し働きますがおおむね仙骨の神経で動いているので(これもおおざっぱですね)、副交感神経の働きが強く関係しているような気がします。
すると、自律神経レベルで補瀉を考えると、手、足、背部、腹部では、その働きが変わってきます。
手足には、いろいろな藏府(東洋医学では、実在の内臓ではなく機能として諸器官を分類して考えます。だから藏府)に関係した気の流れである経脈がありますので(これも「あることにして」と書かなければならないのでしょうが)、それをさらに組み合わせて、補瀉を考えなければならないようになってきます。
………。
長くなりました。
疲れたので続きはまた今度。


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