治療の必要性
前回、病と健康の関係というテーマで書きました。
健康=善、病気=悪、ではなく、健康の中に病がある等といった事を書きました。
今回はそれの続き。
では、健康のひとつである病気なら、その病気を治す必要はあるのかというテーマがわき上がってきます。
ここで考えていただきたいのは、前回、
健康=善、病気=悪
ではないと、述べた事です。
善悪は対峙するものだけれど、健康=善、病気=悪という図式が成り立たない以上、健康と病気は対峙するものではありません。しかしその反面、
病気がなければ、健康という状態を認識する事はできません。
決して対峙するものではないのだけれど、対象となるもの(ここでは病気)がなければ、そのもの自体(ここでは健康)を認識する事はできません。健康とは、病気があってこそ理解できるもので、全くの病気のない世界があれば、健康という概念もありません。
これは、闇がなければ光もわからないといった、ある種キリスト教の根底にある考えに似ているのかもしれませんし、あるいは、陰と陽の関係を解いた大極という中国古代思想とも類似しています。しかし、詳細に見つめていると、 対峙はしないのだけれど、対象となり比較されるものがなければ認識されないという考えは、実際の所、健康に関しても真実であるといえます。
もっとわかりやすくいうと、健康という状態が存在していたとしても、それを認識するすべがなければ-この場合は比較する病気ですね-、あるいは、健康という状態を認識する必要性がなければ、健康という概念は自ずと存在しなくなるんです。
しかし、実際問題として、
病気は、ある。
病気は、健康との比較からすると善悪ではないのだけれど、存在します。
ところが、ここで考えなければならないのは、苦痛ではない病気もあるという事です。
例えば、癌はあるけれど、いまだ症状が発生していない状態。これは、病気であるけれど、苦痛はない状態です。もっと身近に、虫に刺されて、赤くはれてはいるけれど、痛くも痒くもないという状態。身体にとっては異常なんですが、苦痛は感じていません。
しかし、ここで上げた2つの例でも、前者の場合、その癌にかかった人が告知を受けたとたん、心に非常な失望感を覚えた、これは苦痛です。後者の場合でも、ふと見ると虫さされの後が見つかり、それが気になって体中調べなくてはならない気分になった、あるいは、虫の居所を探さないといられなくなった、これもある種の苦痛です。
ですから、病気というものを考えると、それは苦痛を伴うものというのではなく、苦痛を伴う予感、あるいは将来的に苦痛を伴うであろう可能性を潜ませているものととらえなければなりません。
そこで、我々、治療をする側が、病気に対してどのように向き合っていけばいいかという命題にぶつかります。
前者の例を考えると、QOL(生活の質)を向上させるためには、病気を改善する事が必要なんですが、その病気に併行してつきまとう苦痛というものは、人により程度は違うし、その性質も違うという事です。
つまり、病気を治すという事は、治す我々がその程度を決めるのではなく、病気に「なってしまった」患者の程度や性質に従い、どの程度、QOLを向上させる事ができるかという事にかかってきます。
さらに、我々が、その患者の苦痛に対し、どの程度、あるいはどの部分に対応できるのか、それも考慮しなければなりません。
さらに考えると、なぜQOLを向上させなければならないか、それは、生きる人間が生きるためには、より快適に過ごす事を欲求するからに他なりません。
我々は、人がより快適に過ごすために、健康の一部分である病気というものにつきまとう苦痛に対し、いかにどの程度対応できるのか。
そのことが、病気を治療する必要性を考えさせ、また、我々が何をなすべきかを決定づけさせる要因になると思います。
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